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10.11.28 CHM Real 存在の考察

どうして私達はこのような形(つまり、CHM Real)で自己規定しているかについては、メンバー間で完全な意志の疎通が図られているという訳ではない。各々のメンバーが各々の思惑を持って集まって いる、というのが正直なところだろう。しかし、最大公約数的な物を取り出すとすれば、それは以下のように表現される。

活動内容を端的に述べれば、メンバーでつるんで月一回のぐるめぐりや季節ごとの旅行をして、要するに遊んでいると言う事である。が、真に重きを置く べきは内容では無く、その形式と言える。形式と言うのはつまり、私達は集団としての“CHM Real”という観念を、現代社会(これも観念である)の外部に存する各々の立脚点として定義しているという事である。以下詳述する。

先述の通り私達は各々違った思惑を持ってこの集団を構成しているのだが、大切なのは各々が普段はそれぞれ別の形態、例えば学生や会社員、として現代 社会の内部に定義されているという点である。その中で各々がどのような生活を営んでいるのかについて、お互いに干渉する事は少ない。それはさほど重要では ないからである。

そこで私達がこの団体に求めている事、それは相対化と言っても差支えはないだろう。相対化と言う事は、ある一つ の社会集団で精神が凝り固まるのを防ぐと言う事である。しかし、それだけならばCHM Realがそこまで必要になるとは言えない。他にも社会集団はたくさんあるからである。その点で私達が自身を自己規定している最大の理由として挙げられる のは、CHM Realが相対化するのはそれぞれの社会集団ではなくて、社会そのものだと言う事である。

つまり、テーゼとしての現代社会、その下に様々な社会集団が在り、私達はそのどれかに所属する形で間接的に現代社会の一員となっているわけだが、そのアンチテーゼとして、いわば現代社会に対置される観念としてCHM Realは存在すると言う事である。

実際問題として、現代社会内の単なる社会集団ではないか、口先だけでは無いかという批判を受けるかもしれないが、少なくとも私達の思想の射程として あるのは、現代社会という観念に対してCHM Realという観念を二項的に対立させ相対化し、弁証法的発展と言うよりは広義における脱構築を行うことによる、現代社会に蔓延する閉塞的価値体系の破 壊、そして本質に迫る形での生きる意味の認識なので、理想という点において現代社会と対置されるということである。 (文責 Nilsam A. Ras)

あとがき

これだけ無茶苦茶に書いとけばとりあえず問題無いだろ!>all